役人が書いたペーパーを読み上げるだけだとしても…。

昔のことは余り思い出したくはない。良い思い出ばかりではないどころか、悪い思い出のほうが多いし、既に20年近く前のことになるので、現代に通用するかも分からないからだ。

だが、それでも書こうと思ったのは、とある政治家の発言が引き金となっている。件の政治家曰く、自分の国会答弁は、役所の役人が書いたものを読み上げることだそうだ。

断っておくが、自分は政治には興味はない。まぁ、こういう発言をキャッチする程度には興味があるのかも知れないが…。だから国会軽視発言だの何だのという議論をするつもりはない。そういう議論が好きな方はどこか他所でやってもらいたい。

いきなり話が飛ぶようだが、企業などで進められる仕事は、組織立てて行われるのが普通である。役所もそうだろう。組織は通常、ワーカーと、リーダーの組み合わせで構成される。そんな中で自分が平社員として会社に入った時、最初に学んだのは、課長の承認印についてだった。

その時の課長、あるいはリーダーだったかも知れない。誰が言ったか、それ自体には意味は無いのだ。とにかくハンコを押すということは、自分が承認した証だと言ったのを覚えている。つまり、ハンコを押すことで、部下の作成した書類(仕事)は、上司が責任を持つ書類(仕事)となるということだ。

当時の自分は、そこにとても日本人らしいものを感じたのを覚えている。だが後になって、それは恐らく洋の東西を問わず、普遍的なものだろうと考えるようになった。規模の大きな仕事になればなるほど、部下の仕事にいちいち口を出していたのでは、上司の身が持たないからだ。

更に後になって、新聞などで、著名人が特に自分が指示して発言を修正させたと言ったような文言を耳にするに当たり、ハンコやサインによって、下の者が作成したものが上の者の責任の下に、承認…継承されていくメカニズムの存在を確信した。

司馬遼太郎が書いた本で、そのメカニズムのトップにあるものの究極の姿を知った。プロジェクトのトップにある人は、大方針を決めた後は空になるのだそうだ。それ以後ごちゃごちゃと口は出さない。でも、責任者ではある。そういう姿をした明治人を多く輩出した地域があったそうだ。

自分は、いろいろな理由があって、そういう上司ばかりではないことを知り、更には復讐に近いやり口の仕打ちを受けて、社会人を退場した。もう20年近い。同期だった人たちは、そろそろ退職後のことを考え始めている頃だ。だが、平社員の頃に学んだことは今でも自分の中で生きている。もしかしたら今では通用しないかも知れないが、それは自分の知ったことではない。

話を引き金に強引に戻すと、だから役人のペーパーを読み上げるだけだとしても、大臣として読み上げた瞬間、それは大臣の発言になるんですよ。そのくらい勉強しなさい。政治家なんだから…。

以上。

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